銭形平次捕物控の初出誌調査状況(その2):
初出誌調査状況その1に引き続き、ここでは河出書房版全集の書誌で昭和22年から昭和23年にかけて発表された作品とされているものについて説明を行ないます。
●一番札
従来の書誌ではいずれも、昭和22年西日本新聞とされていた作品です。ところが昭和22年の西日本新聞は、用紙の調達難より、新聞連載小説の掲載を話の途中で打ち切るという異常な状態に追い込まれていて、銭形平次どころか新聞連載小説自体が載っていません。
筆者が知る限りでは、この作品が収録されている本の中では、昭和23年4月10日に新橋文庫という出版社から発行された「捕物小説選集 花嫁殺害」という単行本が最も古いものです。この本は東京近辺では鶴見大学図書館にあり、あと岩手県立図書館に収蔵されています。特に岩手県立図書館にある本は、野村胡堂が昭和25年7月20日に岩手県立図書館に贈った自著のうちの1冊です。筆者はオークションでこの本を入手できました。
この「花嫁殺害」には、銭形平次捕物控の「子守唄」「娘と二千両」「一番札」「生き葬い」、池田大助捕物日記の「若様紛失」「古証文」「花嫁殺害」が収録されています。
たいへん興味深いのは、この本には野村胡堂自身による「この集のはじめに」という昭和23年2月の文章が冒頭に掲載されていることです。(写真をクリックしますと拡大写真が表示されます)
その中で野村胡堂は、「『子守唄』『娘と二千両』『一番札』は盛岡の東北文庫に、『生き葬い』は寶石に、『若様紛失』『古証文』『花嫁殺害』は福岡の西日本に載せたもので、寶石以外は地方の雑誌であり、全国大部分の読者に初対面のものであることが、いささかこの捕物集の味噌である。」と書いているのです。
ところが、東北文庫には「閉ざされた庭」「娘と二千両」「子守唄」の3作品が掲載されただけで、「一番札」は載っていないのです。また、西日本新聞社は「月刊西日本」昭和21年8月号に1回だけ「幽霊の手紙」を掲載しているのですが、その後は池田大助捕物日記を掲載しているので、月刊西日本でもないのです。おそらく昭和21年の後半から昭和22年末にかけての時期に書かれた作品だと思いますが、オール讀物でも東北文庫でも月刊西日本でも寶石でもないとすると、他の本を探し出すのは難しくなります。
そのうえ、「一番札」の冒頭部には平次も八五郎も特に説明は加えられていません。新たに掲載が始まった本ではしばしば用いられる「江戸開府以来の」というまくら言葉は無いのです。このため、この「一番札」が掲載された雑誌には、それ以前にも銭形平次捕物控の作品が掲載されていた可能性が高いのです。東北文庫に「一番札」が掲載されていないことは現物確認からも明らかなので、野村胡堂の思い違いなのですが、上記の「この集のはじめに」の中で野村胡堂が正確な雑誌名を書いていてくれさえすればと惜しまれます。「一番札」の初出誌が特定できれば、世に知られていない幻の作品が見つかる可能性を秘めているのです。
●生き葬い
同光社版全集、河出書房版全集、「国民の文学」の書誌では掲載誌は「天狗」とされていたのですが、天狗には池田大助捕物日記が連載され、銭形平次は載ったことはありません。正解は野村胡堂が「花嫁殺害」に書いている通り、寶石の昭和22年4月号に掲載されています。旺文社文庫の「随筆銭形平次」の書誌で訂正されていて、文春文庫の「銭形平次傑作選」でもこれを引き継いでいます。
●嵐の夜の出来事
一連の書誌で昭和23年の掲載誌不明あるいは書下ろしとなっている作品です。この作品は読んでみると、非常にユニークなものであることがわかります。冒頭部からして、八五郎が平次に「親分、大変ッ」と飛んでくるのではなく、八五郎の叔母さんが八五郎に事件を持ち込むのです。しかも平次は、『八も近ごろだいぶ腕を上げて来たから、幸いこの一件は八に任せよう、俺は引っ込んでいるから、一つ手柄試しにやって見ろ』と言って、最後まで事件の現場には赴かず、いわゆるArmchair Detectiveに徹するのです。また、この作品では平次と八五郎に関する「江戸開府以来の」といった注釈はありませんから、突発的にある雑誌に掲載されたものではないと思われます。
この作品は、報知出版社が昭和22年9月1日に発行した「八五郎女難」の単行本に八五郎女難と共に収録されています。ですから一連の書誌の「昭和23年」という記述は誤りであることが分かります。
八五郎女難は報知新聞が昭和21年12月に「新報知」として再出発した創刊号から連載が始まった作品です。新聞連載が終了してほどなく、報知新聞社系の報知出版社が単行本として出し直したわけです。
昭和22年9月の単行本に収録されているのですから、「嵐の夜の出来事」が雑誌に掲載されたとすれば、昭和21年から昭和22年の前半とみてよいのですが、筆者はこの作品は、雑誌からの収録ではなく、「八五郎女難」の単行本化に際して書き下ろされた一編の可能性があるものと考えています。
その理由は、八五郎女難と同じように、八五郎が主役の作品であり、しかも嵐の夜の出来事では、平次は現場には行かずに、脇役に徹しているのです。オール讀物のように、平次と八五郎のコンビに慣れ親しんでいる読者の多い雑誌ならいざしらず、他の雑誌に、いきなり八五郎が主役で平次はほとんど出てこないという作品を載せるのは、作者の立場、編集者の立場のいずれで考えてみても、かなり想定しにくいのです。
中央公論社の「銭形平次捕物百話」に書き下ろされた9編以外には、たとえ河出書房版全集や文春文庫版「傑作選」の書誌では「書下ろし」となっていても、実際には書下ろしではない作品ばかりなのですが、この作品だけは例外で、本当に単行本への書下ろしなのではないかと考えています。
野村胡堂・あらえびす記念館蔵書 |
●恋文道中記
銭形平次の最初の長編であることは間違いない作品です。一連の書誌では昭和23年「サン写真新聞」連載となっているのですが、サン写真新聞ではありません。昭和25年1月発行の春陽堂の春陽堂「現代大衆文学全集2」に収録されていますので、昭和24年以前の初出であることは明白なのですが、一連の書誌の誤記のために、筆者は国会図書館の新聞資料室にあるサン写真新聞の昭和22年1月7日以降、3年分の新聞を見ましたが、結果的には、サン写真新聞に載った野村胡堂の連載は「江戸の恋人達」だけでした。
恋文道中記の初出誌らしき本の存在は、ネット上を調べていて、ある方のブログに「妖奇臨時増刊号」として紹介されているのを知りました。日本近代文学館に行ったついでに調べてみると、妖奇という月刊誌の昭和23年1月号に臨時増刊の予告記事が掲載されていました。さらに国会図書館で調べると昭和23年6月1日発行の本があったのですが、妖奇1月号で予告が出ている割には、6月1日は間延びしすぎです。そのため、ブログの筆者の方に問い合わせをしたら、ていねいなお答えをいただいて、奥付の写真まで掲載してくださいました。結果的には、その方が所有されているのは昭和23年2月1日の発行で、国会図書館にある本は、実際には再版であることがわかりました。(ただ国会図書館の本の奥付には再版とは書いてありません。そもそも単行本ではないので、再版と断る必要もないのですが…)
筆者は、恋文道中記はいろいろな点からこの「妖奇臨時増刊号」が初出だと考えていますが、この本自体には「書下ろし」の表記はないのと、そもそも「妖奇」を出していたオール・ロマンス社に、野村胡堂に対して長編の執筆を依頼するだけの資力があるのか?と疑問を呈される方もいらっしゃいます。どこかの地方新聞に連載されたものが、臨時増刊として単行本化されたという可能性は、たしかに否定できません。ただ、繰り返しますが、サン写真新聞でないことだけは確かです。
これは筆者のうがった見方なのですが、この作品が発表された直後には福島民報に「青い眉」と「娘十一人」が連載されています。おそらく福島民報が直接野村胡堂に執筆を依頼したのではなく、地方新聞社向けに新聞記事や新聞小説などを配信していた共同通信社あたりの通信社が野村胡堂に執筆を依頼したのではないかと思います。これと同様に「恋文道中記」も共同通信社などの通信社が執筆を依頼したものが、昭和22年は新聞用紙不足で地方新聞社は非常に窮地に立っていたので、結果的にはどの新聞にも掲載されなかったのではないかとも思われるのです。もし仮にそうであるとすれば、「恋文道中記」の原稿料は通信社から既にきちんと支払われていますから、「妖奇」編集部は書下ろしよりは安価な、再録の形で掲載することができたのではないかと思うのです。新聞の連載小説として書かれた作品が新聞には載らなかったという可能性もあるわけです。(共同通信社は、記事を1本ごとに販売するのではなく、加盟社である新聞社が負担する一定の社費(拠出金)で維持運営されています。)
(恋文道中記の本の写真は野村胡堂・あらえびす記念館で特にお願いして撮影させていただいた昭和23年6月1日発行の版です。)
●八五郎女難、有徳人殺害、色若衆
河出書房版全集などでは昭和23年の報知新聞となっていますが、旺文社文庫の「随筆銭形平次」の書誌で昭和21年に訂正されています。ただ、この八五郎女難も同光社版全集と河出書房版全集の誤記が一人歩きして、多くの本でこの誤りに基づいた記述が行なわれています。例えば「初めての新聞連載は昭和23年の報知新聞」などといった記述です。
ところが、実際には昭和21年12月15日に復刊された当日の「新報知」から連載が開始されているのです。また、この誤りを鵜呑みにした結果、報知新聞の復刊と、元報知新聞記者の野村胡堂の関連という、重要なエピソードが見過ごされる結果となりました。
報知新聞は戦時中の新聞統制政策により昭和17年に讀賣新聞と合併して讀賣報知新聞となります。(この時に野村胡堂は報知新聞社を退職したことはよく知られています)
昭和21年5月に、讀賣報知新聞は讀賣新聞に題号を戻します。合併によって合流した元報知系の社員の一部は、報知新聞の復刊を目指して讀賣新聞社を退社します。そして夕刊紙の「新報知」が昭和21年12月15日に発刊されたのです。この時の模様は、報知新聞社の社史、「世紀を超えて-報知新聞百二十年史」に詳しく書かれていますが、その時に元報知新聞記者であった野村胡堂は、はじめて銭形平次捕物控の新聞連載を開始し、再建された報知新聞社に花を添えたのです。
残念ながら復刊当初の「新報知」は国会図書館や東京大学の社会情報研究資料センター(旧新聞研究所)にもありませんが、報知新聞社に問い合わせたところ、同社の「個人向け紙面提供サービス」で、新報知復刊からのデータが有償で得られることが分かりました。その結果、八五郎女難(昭和21年12月15日~昭和22年1月29日掲載)と有徳人殺害(昭和22年1月30日~3月4日掲載)、色若衆(昭和22年3月5日~4月1日掲載)が現物確認できました。なお、「色若衆」は掲載最終日の4月1日号だけが、東京ドームの中にある「野球殿堂博物館」が昭和22年4月以降の新報知/報知新聞/スポーツ報知を保存しているので閲覧することができます。写真の新報知の題字は色若衆の最終回が掲載された4月1日号のものです。
色若衆最終回(新報知-昭和22年4月1日号)
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