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江戸時代初期の通貨について:
野村胡堂は銭形平次捕物控などの時代小説の執筆に際して江戸時代の古文書などを参照していました。特に江戸時代の大名や江戸幕府の役人の石高、俸給、家紋などを記録した「武艦」の蒐集家として知られています。しかし江戸時代の通貨に関しては、あまり深い考証は行っていないようで、矛盾点なども散見されます。
したがってここでは、まず史実としての江戸時代初期の通貨について、一般論として述べ、さらに銭形平次捕物控に登場する通貨に関して記すことにします。なお、参考文献として、「江戸銭貨概要」(日本銀行、日本銀行調査局、1965年)、「江戸の貨幣物語」(三上隆三著、東洋経済新報社、1996年)、「寛永通宝銅銭の形態的特徴と金属成分分析」(川根 正教、石川 功、植木 真吾著、日本考古学20号、2005年)および日本銀行の貨幣博物館のウェブサイトに公開されている「日本貨幣史」「日本貨幣史年表」を参照しています。また、このページで掲載している江戸時代の貨幣の写真は日本銀行金融研究所貨幣博物館より貸出しを受けた画像データを使用しています。(このため、当ページの画像の転載、流用はご遠慮願います。)
慶長金銀:
関が原の戦いで勝利した徳川家康は、慶長6(1601)年に新たな貨幣として慶長金銀を発行しました。慶長大判、慶長小判、慶長一分金、慶長丁銀、慶長豆板銀があります。このうち大判は儀礼などに使われるもので、一般的な流通通貨ではありませんでした。金貨の基準は小判で、一分金は小判の1/4の重さで金の含有量も小判と同じに作られ金1両=金4分となっていました。また慶長丁銀と慶長豆板銀は重さで取引される秤量貨幣であるため、大きさも一様ではなく、両替商で計量して小判や一分金、銭貨に交換されていました。ただし、この頃は銭貨にはそれまでに用いられていた室町時代に明から輸入された永楽通宝などを使い続けていました。
金、銀、銭貨の公定相場は金1両=銀50匁=銭4000文(1貫文)でしたが、実際には両替商での交換レートは変動していました。特に銀貨は重さで取引されるので、両替商で計量して小判や銭に換金されました。これを三貨本位制といいます。(1匁は約3.75g)
寛永通宝:
江戸幕府が開かれてからしばらくの間は、銭貨は従来のものが引き続き流通していましたが、永楽通宝以外にも、国内で作られた私鋳銭や粗悪な渡来銭が出回っていました。「鐚一文(びたいちもん)」という言葉で残っている「鐚銭」は元々は品位の悪い私鋳銭などを指す言葉であったようです。永楽銭と鐚銭とでは通用価値も異なっていて、銭貨の流通には混乱も見られました。
こうした中で江戸幕府は寛永13(1636)年に1文の価値がある寛永通宝の発行を開始しました。最初に発行された寛永通宝は裏側の文字の刻印はありません。寛永年間の後も江戸幕府は1文銭を幕末まで「寛永通宝」の名称で発行し続けました。発行当初は寛永通宝1文銭4000枚が小判1両に相当しました。ただし、寛永期には大量の寛永通宝が発行されたため、供給過剰によって銀に対する交換率(=通貨価値)が下落し、寛永17(1640)年頃には寛永通宝の発行がいったん停止されました。なお、この寛永期に発行された寛永通宝は「古寛永」と呼ばれています。
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文銭:
寛文8(1668)年には江戸亀戸村に新たに銭座が設けられ、寛永通宝の大量発行が再び始まりました。寛文年間に新たに発行された寛永通宝の裏面には「文」の文字があることから「文銭」と呼ばれています。また、寛永期の寛永通宝と区別するため「新寛永」とも呼ばれています。文銭は大量に製造され全国的に普及したので、寛文10(1670)年には寛永通宝以外の銭貨の使用が禁じられました。この結果、それまで通用していた渡来銭や京銭などの古銭は一掃されて、銭貨の統一が概ね完成されました。江戸幕府の三貨本位制が完成したのです。筆者の手許にある文銭の例ですと、直径が約25mm、重量は3.4~3.7gほどです。現代の5円黄銅貨(5円玉)は3.75gですから、ほぼ同じ重さです。
元禄の改鋳:
五代将軍綱吉に仕えた勘定奉行萩原重秀は、明暦の大火後の江戸復興や寺社造営などによる幕府の財政赤字を補うために、元禄8(1695)年に金の含有量の少ない新たな小判の発行を行いました。これを元禄の改鋳といいます。慶長小判と元禄小判は重量は18gで同じですが、金の含有量は慶長小判が84%であったのに対して元禄小判は57%と低下しています。またこの時に新たに二朱金の発行が始まりました。1両=一分金4枚=二朱金8枚の価値でした。二朱金は写真の物は7×12mmほどの小さな金貨です。また、銀貨も銀の含有率を下げた元禄丁銀、元禄豆板銀に変わりました。さらに17世紀末には寛永通宝も、直径が約1mm小さく、重量は0.8gほど少なくて2.8g前後のものが発行され始めました。この寛永通宝も「新寛永」に属しますが、「萩原銭」と呼ばれています。それまでの古寛永や文銭と現物を比べると、直径も小さく、重さは3/4程度なので手に持つと歴然と差がわかります。
元文の改鋳:
元文4(1738)年には銅の不足などから、鉄を原料とする一文銭の鋳造が始まりました。古寛永や文銭は銅、鉛、錫の合金で、銅の含有率は50%以上と高く、品位の高い通貨でした。元禄時代の萩原銭でも軽くはなりましたが品位はほぼ同様でした。このため鉄一文銭は「鍋銭」と呼ばれ不評でした。幕府は銅一文銭の回収に努めたのですが、現在でも銅銭の寛永通宝は比較的容易に入手できますので、いかに品位の高い寛永通宝が大量に退蔵されていたかが分かります。
鉄一文銭が不評であったことから、明和5(1768)年には真鍮製の四文銭(しもんせん)が発行されました。銅、亜鉛、鉛の合金の真鍮貨で現代の5円硬貨と似た色です。発行当初は裏側に波の模様が21ありましたが、鋳造の歩留まりの向上を図って後年に十一波になりました。筆者の手許にある四文銭のうち、二十一波のものは直径約28mm、重さは4.9g、十一波のものの直径は約28.5mm、重さは4.8gほどです。この四文銭は銅の含有率の高い寛永通宝にくらべると青みがかっているので「青銭」と呼ばれました。(大辞林)また裏に波の模様があるので「波銭」とも呼ばれています。(大辞泉)
明治以降も通用した寛永通宝:
明治政府は明治4(1871)年に「新貨条例」を発布し、円、銭、厘の新通貨の発行を始めました。金1.5g=1円の金本位制が採用されていて、1円=100銭、1銭=10厘です。新貨条例発布当初は1円~20円は金貨、5銭~50銭は銀貨、1厘~1銭は銅貨でした。この時、明治政府は少額貨幣の不足を補うため、江戸時代の寛永通宝を通用させました。当初の新貨条例には1厘=1文と規定されています。また、明治4年の「旧銅貨ト新貨トノ比較品位制定(太政官布告第658号)」には銅1文銭は1厘と等価で、真鍮4文銭は2厘と等価と規定されています。
明治7年からは二銭銅貨が追加されて銅貨の大量発行が始まりましたが、明治30年に公布された貨幣法附則17条でも寛永通宝が有効であることが記載されています。明治時代を通じて貨幣の価値はほぼ一定に推移しましたが、大正時代以降には貨幣価値は下落していったので、寛永通宝10枚を1銭に交換して使う人は次第にいなくなったものと思われます。しかし昭和28年制定の「小額通貨の整理及び支払金の端数計算に関する法律」によって昭和28年12月31日限りで通用を禁止されるまでは、法的には寛永通宝が小額補助通貨として生き残っていました。
銭形平次捕物控に見る江戸の貨幣:
銭形平次といえば「投げ銭」が頭に浮かびますが、野村胡堂は「胡堂百話」の中の『銭形平次誕生(二)』で、「…普通の一文銭なら軽すぎるが、徳川の中期から出来た四文銭。裏面に波の模様のあるいわゆる波銭ならば、目方といい、手ごたえといい、素人の私が投げてみても、これならば相手の戦闘力を一時的に完封できそうである。」と、平次の投げるのは一文銭よりもやや大型の四文銭であると書いています。実際に「結納の行方」や「和蘭の銀貨」「痣の魅力」にも平次が四文銭を投げるところが描かれています。
ただ、野村胡堂も「胡堂百話」の中では「徳川の中期から出来た四文銭」と書いているのですが、この文章は昭和33年に書かれたものであって、野村胡堂が当初から四文銭とは意識していなかったのではないかと筆者は考えています。
まず第1作の「金色の処女」では時代の設定が三代将軍家光の頃となっているので、野村胡堂も寛永通宝四文銭ではなく「その頃通用した永楽銭」で平次が銭占いをする場面を描いています。また第19話は「永楽銭の謎」という題名で、平次になりすました曲者が永楽銭を投げるという設定になっています。これらの作品を見ると、少なくとも銭形平次捕物控のごく初期の頃には、必ずしも徳川の中期の四文銭とは野村胡堂は考えてはいなかったことが分かります。(ただ、「肉厚の永楽通宝」などという表現があるので、鐚銭1文に対して永楽銭が四文銭として通用していたことを野村胡堂が意識していた可能性はあります。)
寛永通宝に関しては、第38話の「一枚の文銭」がとても印象的な作品です。「文銭」がひと目で新たに発行された貨幣だと分かるという所がトリックに使われています。また、文銭が京都方広寺の大仏を鋳潰して鋳造されたという当時の噂についても触れられています。この作品では他に丁銀、慶長大判、一分判(一分金)も登場します。
第9話の「人肌地蔵」は、「地蔵様の前に置いた寛永通宝が一分金になる」という怪事件がテーマで、青銭、鐚銭、丁銀、豆板銀といった単語も出てきます。
銭形平次では犯罪がテーマとなっているので、小判の盗難の話は頻繁に出てきますが、その中では「銭形平次の頃の慶長小判は品位が高く高価値であった」というような説明が何度も書かれていて、時代設定が元禄の改鋳以前であることをうかがわせるのですが、その反面、元禄の改鋳の時に初めて鋳造された「二朱金」が登場する作品もあります。第58話の「身投げする女」がそれで、「五両一分二朱六十八文」という細かな金額が文中で何度も繰り返されるユーモラスな作品です。
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また、銭形平次捕物控では、盗まれた小判や偽造された小判の話などがありますが、「桐の極印」では極印が打たれていない小判がテーマになっています。左の写真は慶長小判に打たれている桐の極印の拡大写真です。
「小粒」という言葉も銭形平次捕物控ではたまに登場します。銭形平次捕物控を読む上では「小粒」は「豆板銀」を指す言葉と考えていて良いでしょう。豆板銀の大きさは一定ではなく、1匁(約3.75グラム)から10匁(37.5グラム)くらいのものがあったようです。小さな1匁の豆板銀でも80文に相当しますから、「小粒」とは言ってもかなり高額です。
銭形平次捕物控の中に出てくる江戸時代の貨幣に関する記述は、厳密に見ると時代考証的には必ずしも正確であるとは言えませんが、銭形平次捕物控は娯楽を目的とした大衆読物ですから、あまり作品の時代考証に対して目くじらを立てても仕方がないものと思います。
最後に、銭形平次捕物控の中では「1両」の価値について説明している作品がかなり多数あるのですが、それについては注意が必要ですので書き添えておきます。例えば昭和12年のオール讀物7月号に掲載された「結納の行方」では「一両は六十円、三千両は十八万円」と書かれているのですが、河出書房版ではこれが「一両は一万円、三千両は三千万円」と直されているのです。昭和28年8月に発行された同光社磯部書房の「錢形平次捕物全集第十巻」に掲載されたものも同じ文章なので、河出書房版は昭和28年の同光社版を底本として仮名遣いだけを直していることが分かるのです。
ですから「一両は一万円」といっても、それは昭和28年当時の一万円で、国鉄の最低運賃は20円、はがきは5円、大学卒の国家公務員6級職(現在の総合職相当)の初任給はわずか7650円だった頃の数値なのです。ちなみに初出の昭和12年は、はがきが1銭5厘から2銭に値上げされた年でした。現代の貨幣価値とは大きく異なるわけです。
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